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L'homme transcende (ロム・トランセンデ)

BodySuitI&II2

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ウクライナ、キエフのゴーゴルフェストにてのパフォーマンス

L’homme transcendé

日時: 2009年9月20日、19時
場所: アーゼナル、コンサート・ステージ、キエフ、ウクライナ

後藤英 (コンセプト、音楽、Max/MSP/Jitter)
奥野衆英(ボディースーツ1・パフォーマンス: ダンス、マイム)
Bijuree (ボディースーツ2・パフォーマンス: ダンス、マイム)

ゴーゴルフェスト2009
http://gogolfest.org.ua/


トランスヒューマニズム(Transhumanism)は、新しい技術を用い、身体の機能と能力を進化させ、人間の状況を前例の無い形で向上させようという思想である。また、トランスヒューマニズムは人間の機能拡張やその他将来の科学技術の開発・使用により、将来起こりうることを予知するものでもある。
一般的に、トランスヒューマニズムでは新しい科学技術、また未来技術として考えられている。この考え方に則り、実際に技術や医療による寿命の延長・肉体の強化、人間とコンピューターの接続、などの研究が行われている。トランスヒューマニストは、人間は人間以上の存在になるためにこれらの科学技術を使用すべきであり、使用できると考えている。
ポストヒューマン(Posthuman)は、仮説上の未来の種であり、「その基本能力は現在の人類に比べて非常に優れていて、現代の感覚ではもはや人間とは呼べない」ものとされる。この場合、ポストヒューマンと他の仮説上の(人間ではない)新たな種との違いは、ポストヒューマン自身かその先祖が人間であったという事実だけである。従って、トランスヒューマンは人間の限界を超える強化をしたものであるが、同時に人間と認識されるものである。ポストヒューマンは、現在の人間の尺度から見て「神」のような存在になるとする考え方もある。これはポストヒューマンの知性や技術があまりにも高度で洗練されているため、人間が見たらその意味を理解できないだろうということである。
人格を改造する薬品がまたたくまに広く使われるようになった事実を見ても、我々がテクノロジーを利用して自分を変えたいとどれほど切望しているかが分かる。人間の尊厳の意味について、人格を改造、改変する向精神薬の数々は、この先来るべきものを予兆している。
我々はポスト・ヒューマン、人間後の時代に足を踏みいれようとしているのかも知れない。この未来ではテクノロジーの力によって、人間性を変える力が与えられる。人間の自由という旗印のもと、多くの人々がこの力を受け入れる。親がどんな子を産むか選ぶ自由、科学者が研究を進める自由、企業がテクノロジーを用いて富を築く自由を最大限に活用したいと、皆が望んでいる。しかし、この種の自由は、人々がこれまで享受してきた自由とは違う。従来、政治的自由が意味してきたのは、我々本来の性質(生の苦しみなども含めて)が確立してきた目的を行なう自由だった。テクノロジーの進歩が人間の目的に役立たなくなってもまだ、進歩は止められない、自分達はその奴隷だ、などと諦めるべき理由などどこにもない。真の自由とは、社会で最も大切にされている価値観を守る自由を意味する。
人間を第一の脅威にさらすのは、テクノロジーという潜在的な死の機械装置ではない。実際の脅威は常に人間の本質にあった。人を枠に嵌めようとするルールこそが脅威なのだ。これによって、本来の開示に気付けず、さらに原初的真実を経験できなくなる。
自らが幸せになる為に自ら改変することを望む世界。社会科学と精神医学と生命技術が、それを可能にし、人間は人間以上になる。この未来に対しては実は恐怖ではなく、我々に与えてくれる根本的な自由と外部から与えられた枠というアイデンティティーという圧力からの解放でもある。
一方で現代社会における新しい権力の形は、相手を従わせるのではなく、相手が自ら望む行動を取ることが、社会にとっても優れている行動(社会の生産性を上げる行動)になるように、人間の精神を創り変えることで、誰もが支配されているとは思わず、皆、自ら楽しんで生きていると思いながら、その実は権力に全て操作された人々として、人々が生きる社会。その社会では誰もが幸せで(幸せと感じる様に育てられる環境だから!)、誰もが自由で(本当は檻の中の自由だけど、檻だとは決して思わない!)、誰もが人生に満足している(そう思うように操作されている!)、この社会では皆が満足しているので、誰もかも、何も否定せず、歴史は終わる。人間は自らの尊厳を持ってこの権力と戦うべきだ。究極的には、人間を枠に入れることに対して戦うべきだと云っているのだ。
環境と情報操作、その他あらゆる科学が、人間をその人間の自覚なしに操作する世界。そして、いつしか、自ら操作されることを望む世界。これは未来ではなく現在我々が暮らしている現実の世界でおきてしまっていることである。
人間が、自らに疑いを持たなくなる、それは国家の究極の完成系として現れる。不幸な人には副作用ゼロの、人格を快活で愛情深くいつも幸せに溢れさせる薬物の投与かのような、架空の物質文化を与えて幸せかと思わせる。病気や怪我は技術の進歩でなくなり、身体の苦しみも薬物や生体工学や環境の 調整によって消去すると思わされている一方で、テロリストと言う言葉の元に人々は暴力と精神的不安によって国家の思う通りに動かされている。人々が操作され、常に心底から幸せである世界、究極の楽園ノ反・楽園。その背景には国家の帝国主義的思想と個人の利己欲がからんでいる。
これらは福祉国家と資本主義(企業経済)の権力なのである。 人間の終わりを齎すことを危惧し、この権力の増大を押し止めないと人間は幸せな、白痴の幸せに耽る技術の奴隷、幸せに満ちた笑顔の奴隷になってしまう。
誤解を避けるために、改めて念をおすが、冒頭にトランスヒューマニズムとポストヒューマンを否定するわけではない。人間の根本的な部分が現代社会の権力によって操作されてしまっているのが問題であって、トランスヒューマニズムとポストヒューマンのように人間の身体が拡張されるのが恐れの対象ではないのだ。 多くの人は未来の人間の身体の機能拡張に恐れを抱いてしまうが、本当に起こっていることは現代に我々一人の身体が権力によって見えない形で身体を変化させコントロールしようとしている点である。
ニーチェの超人が語られた当時(19世紀)は人間の世紀であった。人間が神に取って代わった時代である。そこで、みんな、「人間とは……!」とか言い始めた。でも、ニーチェは「それは違う」という。というのも、人間は進化の途中で、不完全なものである、と考えたのだ。
ニーチェが予言したように、(ツァラトゥストラに出てくる末人のこと)我々はこの倫理意識を忘れるよう運命付けられているのかも知れない。しかしそうなったら、本来の人間性による正邪の基準を捨てた結果を受け入れ、(今の人間性を持つ私達が)望まない社会になるだろうことは認めなくてはならない。
ニーチェは、「ツァラトゥストラ」(<ゾロアスター)という架空の人物に託して、新しい価値と世界観を語る。簡単に言えば、「超人」とは、自らのうちで新しい価値(例えば、自分の生きる意味)を創造できる人間であり、その試金石が「永劫回帰」である。
人間は人間の身体のような機械を前にして、初めて人間の身体とは何かをあらためて考えさせられる傾向にある。また膨大な能力をもつ人工知能を知る際に、同時に人間の複雑な精神についてもありがたみを改めて知ることになる。客観的な対象を認識しない限り、自分の身体に安心しきってしまうどころか、それに対して十分に意識をすることがない。つまり未来の人間の身体の拡張に対する表面的な脅威を提示しておきながら、実は現代に置いて個々の身体がすでに国家によって操作されてしまっている恐るべき現実を提示するのがこの作品のねらいである。

身体性とテクノロジーの関係性について

センサーによって構成されたインターフェースは、演奏者にとっての楽器という関係性に当たるのであろうか。インターフェース自体はサウンドを発することはなく、コンピューターにより初めてサウンドを発することができ、プログラミング自体によってサウンドや音の素材は変化することになる。さらに、それがパフォーマンスで用いられる際には身体性とサウンドの関連性が重要になってくる。つまり、インターフェースを物理的に変化させることはできないが、そのプログラミングによってインターフェース、つまり楽器としての演奏の仕方、考え方が異なってくることになる。
また、上記のプログラミングで変化するバーチャルな楽器と現実の人間の身体と身振りの関係性はいかなるものであろう……。身振りとそれに伴うサウンドの関係性が明確に感じられる場合、とりわけ楽器的な要素が強調されることになる。しかし、同じ身振りであってもアルゴリズムによって全く異なるサウンドが発せられたり、複雑な音響が作り出される場合、関係性が難解なものとなり、インターフェースと身体の意味は楽器的な要素と異なるものになる。
このような要素を統合して、改めて音楽を作曲することにより、パフォーミング・アートとして、またはムジーク・テアターとして身体性とサウンドの関係を作品として開拓できないかというのがこの芸術の論点である。
さらに抽象的な美学の見地から論議を展開してみれば“エレクトロニック・デバイス(電気装置)によって、身体は果たして拡張できるか?”“それによって、何を作品にもたらすことができるのか?”“アートにおける身体性とはどのようなコンセプトとして成立できるのか?”といったようなことを考えることができる。

BodySuitを用いた新たなパフォーマンス

BodySuit(ボディー・スーツ)は、パフォーマーが楽器の役割を果たすインターフェースを手に持つというものではなく、スーツを着て身体の動きを認知するシステム、データ・スーツの一種のである。
BodySuitを着たパフォーマー(奏者)は身体の動きによってサウンドや映像を操作することができる。BodySuitは動きを認知するモーション・キャプチャーのシステムであるし、身体による楽器とも言える。例えば、腕を曲げ伸ばしたり、ひざを動かすことによってサウンドを発したり、手首や足首を曲げ伸ばしすることにより、映像を変化させることもできる。例えばフルートやピアノのように、従来の楽器は指、手や口と息を使って演奏するものがほとんどであり、そこでは必ず物理的な限界が存在する。BodySuitは、物理的な楽器を伴わないため、従来の楽器の限界には捕らわれないのだ。つまり楽器演奏のための身体の部分が、指や口に限られることはなく動作に関しても限定されない。従って、演奏方法は身体が動く部分である限り無限である。通常の楽器と異なった身体の動きを用いることにより、発せられるサウンドも、新たな可能性を得られるのだ。
BodySuitでは、両肩をまちまちに上下させることによって音階を通常の楽器では不可能な速度で、同時に演奏することもできる。足で強く床を蹴ることにより打楽器的な衝撃音も発しながら、その音色を手首の曲げ具合で変化させることも可能だ。とりわけ、このBodySuitは身体の動きを強調しながら、音楽表現、または映像を操作することに有効である。つまり、例えばダンサーがこのBodySuitを着てダンスをしながら音楽を演奏することができる。従来では背後に流れている音楽に合わせることを強要されてきたが、BodySuitを着ることにより、ダンサーであり演奏家としてパフォーマンスできるのだ。さらに映像に関しても同様だ。このような演奏形態は、新たなパフォーマンスの可能性へと導いてくれることになる。

具体的なBodySuitのテクニカルな解説

BodySuitについて詳しく説明しよう。両腕の手首、ひじ、肩、両足の足首、ひざ、ももの付け根の関節部分の合計で12個のセンサーが取り付けられている。センサーは関節の曲げ具合によって電気信号を変化させる。センサーからの電気信号はIRCAMのAtoMicProによってMIDI信号に変換され、さらにMIDIインターフェースにつなげられる。そののち、CYCLING'74のMaxによってシグナルはコンピューター内で変換されリアル・タイムでCYCLING'74 MSPでサウンドが合成される。またビデオの映像は、CYCLING'74 Jitterによって変化させる。
しかし、やはりこの12個のセンサーを同時に扱うことは、パフォーマーにとって容易なことではなく、特にダンサーにとっては身体の動きを考慮しながら、サウンドを十分に制御しなければならない。そこで、コンピューター内のプログラミングの助けを借りる必要がある。例えば、Max内でマッピング・インターフェースと呼ばれるものでは、入力されたデータをサウンドやアルゴリズム生成のために適切な数値に変換するプログラミングの部分を使い、各チャンネルのオン/オフ、それぞれの数値にスケーリング、変化の具合を設定する。そのほかには、ニューラル・ネットワークのような高度なプログラミング技術によるインテリジェントな制御を行う必要がある。さらに人間の身振りと、サウンドの関係性も重要な点である。身振りに対するサウンドが単純過ぎる場合、音楽的に不十分になるケースが多く、また複雑過ぎる場合は身振りとサウンドのインタラクティブな関係性は判別しにくい。
このようにさまざまな状況と、作曲の上での構成方法によって、適切にサウンドのプログラミングの手法を判断する必要がある。

Suguru Goto - L'homme transcende´

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Photos and Copyrights: Ohyrenko Valentyn
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